世界ふしぎ発見!伊達政宗の野望。支倉常長、慶長遣欧使節イタリア謎のサムライ

世界ふしぎ発見!400年前、伊達政宗の密命を受けイタリアまで渡った謎のサムライは誰?

世界ふしぎ発見!伊達政宗の野望は倒幕!?
海を渡ったサムライ支倉常長(はせくら つねなが)の密命を追う!
2018年6月9日(土) 21時00分~21時54分

バチカンに残された二通の手紙から
そこには最後の戦国武将とよばれた伊達政宗の驚くべき野望が秘められていました。

その、伊達政宗の野望の密命を担った謎のサムライ
支倉常長について調べてみました。




伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節

慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)とは慶長18年(1613年)に
仙台藩主伊達政宗がスペイン国王・フェリペ3世ローマ教皇・パウロ5世のもとに派遣した使節です。

慶長遣欧使節は伊達政宗の命で
フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として派遣されました。

伊達政宗が欧州に派遣した謎のサムライ支倉常長とは

支倉常長は副使として慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航

アジア人として唯一ローマ貴族、及びフランシスコ派カトリック教徒となった人物です。
支倉常長の洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ

また、日本で初めてチョコレートを食したのは支倉常長ともいわれています。

支倉常長

生年月日:1571年
出身地:仙台藩
死没:1622年8月7日

支倉 常長は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。
桓武天皇を祖先とする血筋でありながらも伊達氏の家臣として活躍




伊達政宗の野望、派遣した慶長遣欧使節の目的は?

伊達政宗の命でスペイン国王、ローマ(イタリア)に派遣された慶長遣欧使節の目的は
何だったのでしょうか?

そこには伊達政宗の恐るべき野望が隠されていました。

独眼竜・伊達政宗といえば非常に野心の強い人物で知られています。
最後まで天下取りをあきらめなかった伊達政宗は
自分が幕府を開いた時のために、法律まで作らせていたそうです。

そして、徳川家康が江戸幕府を開いても
政宗の野心は消えることはありませんでした。

伊達政宗の欧州への慶長遣欧使節派遣は家康から許可を得ていました。




伊達政宗の野望は倒幕であった


慶長遣欧使節の主目的は仙台藩とスペインの通商交渉とされていますが、
実はそこには恐るべき伊達政宗の恐るべき野望が隠されていました。

政宗はスペインとの軍事同盟を結び、さらには倒幕の野望があったのではないかともいわれているのです。

スペイン国王フェリペ3世やローマ教皇パウルス5世宛ての書状には
政宗自身の署名捺印と花押が記されており、驚くべきことに
スペイン語で政宗自身も洗礼を希望しており奥州領内にキリスト教を広めるという旨が書いてあるのです。

当時の徳川幕府はキリスト教を厳しく取り締まり、キリシタンを弾圧していたのは歴史の周知どおりですよね。

つまり、伊達政宗がキリスト教の洗礼を受け、奥州領内にキリスト教を広めるということであれば
徳川幕府と対立することとなるのです。

正宗のキリスト教の洗礼で日本の歴史が変わったかもしれない

その後、西日本で日本の歴史上最大規模の一揆が起こります。

島原の乱です。

島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれる最大規模の一揆は
1637年12月11日天草四郎時貞を指揮官とするキリシタンが起こした一揆で
幕府は鎮圧に半年以上もかけました。

もしも、この頃伊達政宗が
スペインとの軍事同盟を結び、キリスト教の洗礼を受けていれば
東西で起こった大規模な一揆を幕府は沈静化できなかったでしょう。

おそらく日本の歴史は完全に変わっていたことでしょう。




支倉常長の最後と政宗の野望の終わり

しかし、慶長遣欧使節派遣後は
政宗は幕府の方針に従ってキリスト教を弾圧しています。

それはなぜなのでしょうか?

フェリペ3世と慶長遣欧使節派遣の支倉常長が通商の交渉をしたときは
既に日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっていました。

キリスト教の弾圧はすでにもうヨーロッパ側にも知られていたため、支倉常長の
通商交渉は失敗に終わったのでした。

もちろん、スペイン国王もキリスト教を弾圧している国と軍事同盟を結ぶはずはありません。

支倉常長の慶長遣欧使節団は失敗に終わります。

虚偽の親書が残った伊達正宗

常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、
元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国します。

常長が欧州から帰国した頃には、日本国内では本格的にキリスト教が弾圧されていました。

政宗もキリシタンの家臣支倉常長を、高く評価することはできず、
常長はわずか、帰国の二年後に亡くなっています。

伊達政宗の野望はスペインの通商交渉および軍事同盟が締結できなかったことで終わりました。

結果的に伊達政宗はスペイン国王フェリペ3世やローに虚偽の親書を渡したことみが残されたのです。

そこから読み解かれるのは正宗の倒幕の野望でした。